バングラデシュでスラムの子供達への医療ボランティアをするドクター ホセインの


Aichi Hospital
アイチ ホスピタル

This is written in Japanese. There is another page written in English



更新情報:新アイチホスピタル完成に関する内容を追加しました(2011/2/22)


病院概要

<所在地> バングラデシュ ダッカ市 ウットラ地区(ダッカ空港北隣)
<院長> モアゼム=ホセイン(小児外科博士 - 名古屋大学)
<診療科> 小児科、産婦人科、外科、耳鼻咽喉外科、整形外科
<設備> 手術設備 (2式)、一般検査、X-ray、超音波 各一式
<建物とベッド数> 鉄筋コンクリート6階建て50床
<医師数> 10名(麻酔科を除く)


設立とその後の経過

 本病院設立の話は院長であるドクター モアゼム=ホセインが名古屋大学に在学中、自国(バングラデシュ)でのボランティア活動の経験から、自国の貧しく病気に苦しむ子供達の為に、無料診療活動をやれる病院を持ちたいと言う希望を周りの人達に話したことから始まった。JBCSはモアゼム ホセインの非常に誠意ある言動に信頼を寄せた人達が1995年5月に発足したもので、精力的に活動し同年末には小規模ながらも病院設立可能な資金が集まった。直ちにモアゼムホセインは帰国し準備を始め、借家を手作りで改装し、翌96年5月18日に20床規模の病院を開院した。2000年8月には転居し上記規模のベッド数に拡大した。病院の運営は全てバングラ人による。



 病院はダッカの北部のウットラと言う開発中の高級住宅エリヤに有る。周りは殆どが4〜6階建の約300・程の各階毎に賃貸しするタイプのビルが多い住宅街である。この病院はこれらビルの住人である富裕層の患者の支払う医療費から出る利益で、貧しい人達への無料診療をすると言う考え方に基づく自立したボランティア活動を目指した。

 ドクター ホセインの診断についての十分な説明等誠意ある対応で評判を得ると共に、設立後の約2年3ヵ月はJBCSの会員が現地で事務長として協力したこともあり、病院は着実に患者数を伸ばす一方、貧しい人達への無料診療は設立当初から実施して来た。ウットラは土地造成中の所にスラム街が有り病院との距離も遠いことからそこの患者が受診しやすいようにと、97年5月からは造成地区に有る学校の一室を借りての院外ボランティア活動も始めた。その結果このボランティア活動は今では1日に200人近く、年間13000人を超える患者の診療をしており、ボランティア診療は診察、投薬に加え必要な検査、手術、入院も実施することで当地域のスラムの中で確実に定着している。2000年7月からは隣街でのボランティア診療も始めた。また、病院は日本大使館の現地人の健康診断、およびJICA日本人及び現地人従業員の医療協力病院としても指定され、日本人の緊急手術をも実施しており、現地日本人の間でも信頼を得ている。

 一方、2003年にはバングラデシュ政府にアイチホスピタルの医療活動が認められ、政府より医科大学併設の誘いがあり、2万5千uの敷地の大半を補助金により取得し、04年から新病院の建設が始まるとともに、医科大学が設置された。この大学で、ドクター ホセインは自身の体験から、貧しくても優秀な医学生を支援するための奨学金制度を始めた。

 2002年からはガンジス河西部農村で周辺に在住する医師達の協力を得て、年に3回程度の集中的なボランティア医療を始めた。第1回目には5000人を超える患者が集まった。また、04年夏の大洪水時にはJBCSからの援助金で、避難所でのベッド10床を置いての20日間の無料治療を実施した。

 JBCSは会員が滞在し、事務関係全般の構築を行ったこともあり、病院から毎月詳細な報告を受けおり、経理も含めて詳細に把握しています。 2009年6月 第10版作成 (逐次改訂)

作成責任者:JBCS会員・元アイチ ホスピタル事務長 黒田 徳治
Tel・Fax: 0572-27-5449


新アイチホスピタル完成!


 1996年5月17日にアイチシシュ(子供)ホスピタルが借家で設立して以来、16年が経過した本年1月15日、自前の“新アイチホスピタル”が完成し、オープニングセレモニーが執り行われました。JBCS会員が待ちに待った新アイチホスピタルです。

 式には日本から10人が参列しました。今回はその時の様子などをご紹介します。


開院式であいさつするドクターホセイン

 会報へのドクターホセインのメッセージの一部(英文)

 We hold the interest of the patients; we are committed to be personalized, specialized, accessible and cost effective care at the highest quality within an environment of Intensive Care and excellent medical services. We believe that patients and their families are the centre of our work. We work as partners with physicians and staffs. We believe that our staffs is the source of our strength. We work as a team with respect and dignity. We are committed to provide quality service and continuous improvement. We believe in honesty, integrity and hard work in a balanced way. We have an oath to provide the country a much better healthier community. Adding years of healthy life of the peoples of Bangladesh, we want smiling face of our healthy nation. Our volunteer work is also going on and we will continue it longtime of indefinite period. The number of patients including our voluntary camp is increasing gradually. Thank you JBCS members, thank you Japanese friends for your wonderful support to build up Aichi Hospital and also fulfill our dream. We want to get your kind cooperation and support to continue our health care service for the poor and helpless peoples of Bangladesh.

 会報発行へのドクターホセインのメッセージの一部(日本語訳)

 我々は、患者の利益を保ちます。我々は、集中治療と優れた医療の環境の中での、最高かつ個人化されて、専門で、利用可能な、効果的なケアをすることに専念します。我々は、患者と彼らの家族が我々の仕事の中心であると思っています。我々は、医者とスタッフとのパートナーとして働きます。我々は、それを我々のスタッフは我々の力の源であると信じます。我々は、尊敬と尊厳をもつチームとして働きます。我々は、良質なサービスと継続した改善を提供することを約束します。 我々は、―人々の真心を信じ、バランスよい方法で一生懸命働きます。我々は、国に、より健康的なコミュニティーを提供することを約束します。バングラデシュの人々の長年健康な生活に加えて、我々は我々の健全な国民の笑い顔が欲しいのです。 我々のボランティア活動はうまくいっていますし、これからいつまででも続けます。我々のボランティア診療の患者数は、徐々に増加しています。 JBCSの皆さま、アイチホスピタルの成長を支持し、私たちの夢を実現させてくださる日本の皆様に、お礼を申します。 バングラデシュの貧しく頼る先のない人たちへの、私たちの医療ケアを継続するために、皆様の、ご親切な協力と支持をお願いいたします。

 開院式参列者(JBCS事務局長 松井佳子)の報告

 Dr.ホセイン自力での新アイチホスピタルの建物が完成、9階建の立派な建物の病院です。16年前Dr.ホセインに病院を作ろうと描いていた病院がこんな立派な病院が実現するとは誰も想像していなかったと思う。彼の夢を実現させるためにJBCSは資金作りに励み、Dr.ホセインからは約束のボランティアクリニックのデーター、貧しい為病院に行けない人たちへの救済の手を差し伸べている努力の事実、スタートした病院を倒さない為の現地流の工夫、Dr.ホセインは必死に考えて努力を惜しまなかった結果だと思う。そして彼は、バングラデシュの医療事情にも一石を投じたと思う。彼にこんな素晴らしい将来の展望があったとは思ってもいませんでした。彼の夢が実現しこの15年間、Dr.ホセインの活躍の凄さには感心させられています。現地で彼を支えている多くの関係者、そして日本側での多くの支援者に対して感謝の気持ちでいっぱいです。

 そして今回のバングラ訪問でもう1つ嬉しかった事、Dr.ホセインの2人の子供たちの事、あけみちゃんとシアム君の成長ぶり。あけみちゃん16歳、シアム11歳、難しい年頃ですが、2人共、心配していたより、ずっとずっと年齢以上の子に育っていました。日本から来た沢山の訪問者への気配りに、温かい所作に嬉しく思いました。昨年Dr.ホセインはムーンさんと再婚、スウィティ亡き後新家族はどうかしらと?老婆心でした。


建設された新アイチホスピタル。 地上9階、地下1階、ベッド数125、手術室ほか。医師52名、看護婦50名、スタッフ他約80名で合計180名以上。 牛が、この辺りにもいるのが、いかにもバングラらしいですね。


JBCS関係者10名が開院式に出席しました。 ホセインさん、奥さんのムーンさん、長男のシアム君も一緒に記念写真


ドクターホセイン、ステファニー・レナト賞を受賞!


 ドクターホセインが、弱者の側に立ち、人間としての尊厳を守るための活動をしている個人に与えられる賞であるステファニー・レナト賞を受賞することが決定し、10月24日名古屋栄のオアシス21で開催中のワールド・コラボ・フェスタの式場で受賞式がありました。当日、ドクターホセインは、アイチホスピタル院長であり、医科大学の理事長・講師と言う忙しい状況にも関わらず式に出席しました。今回の同賞の受賞は外国人としては初めてのことです。

 ステファニー・レナト賞は1964年に来日して以来、神父としての教会活動のかたわら、日本国内で40年間近くにわたり、一貫して社会的弱者の立場にたち、人間の尊厳を守る活動を続けてこられた特定非営利活動法人名古屋NGOセンターの初代理事長をされた後、東ティモールの地で活動中に不慮の交通事故で亡くなられたステファニー・レナト氏に因んで2004年に制定されたものです。

 今回の受賞理由は《ドクターホセインが、1991年から4年間、名大医学部で留学生として学んだ。在学中、「貧しく病んだ子どもたちのため、無料で診療できる病院を建てたい」と、95年にNGO団体「日本バングラデシュ友好協力会」を発足。その後、各地で講演を行って寄付を募り、96年に「アイチホスピタル」を母国のダッカで開いた。そしてスラム街などで医療ボランティアも行い、現在ではベッド70床で、年間延べ1万3000人以上の患者を診察する総合病院となり、同国政府から補助金を得て、医科大学も併設された。》ことが評価されたものです。

 ドクターホセインは式場で「子供のために働けることを幸せに思います。これからも子どもたちの支援を続けていきたい」と述べるとともに、「日本のみなさんの協力に感謝するとともに、今後も支援・協力をお願いいたします。ありがとうございました。」と喜びを満面に、受賞のあいさつをしました。

 受賞式後、関係者による祝賀パーティーが市内で持たれ、約30人がドクターホセインを祝いました。(2009年11月5日 黒田徳治 記)


受賞式での満面の笑みのドクターホセイン


ミセス スウィーティーの思い出


 本年、7月16日ドクターホセインの妻であるスウィーティーさんが亡くなりました。彼女の正式な名前はカニス タニア スウィーティーです。今年40歳。アケミさんとシアム君という2人の子供がいました。彼女は1996年のアイチホスピタルの設立以来、ドクターホセインを影で支えてきました。その彼女のことについて、遅くなりましたが、私(黒田)の思い出話を書いてみましたので、ここに掲載します。

 私には、日本に居た間の彼女(スウィーティー)の思い出は殆どない。ただ、活発で少しやんちゃな、Dr.ホセインのお嫁さんと言うよりは、お付き(?)のお嬢さんて感じだった。

 何と言っても彼女の強いイメージは、私が初めてアイチホスピタルに赴任(?)した1997年からの2年半の間にある。

 私と彼女は、その2年半の間“アイチ シシュ ホスピタル”の一室で、机を並べて仕事をしていた。彼女は外交、私は内交(?)の役割分担が自然に出来ていた。もっとも彼女の「外交」とは病院外のことだけでなく、看護師を指揮することなどの、外交的(?)なこともふくまれていた。そして私の「内交」とは殆どが事務的で、Dr.ホセインの意向への協力と、助言だった。私の現在やっていることも事務以外は変わらない。

 その頃から、彼女は看護師への指導を、彼女なりに一生懸命に定期的(2週間くらいか)なミーティングを行うことでやっていた。そしてこれも、彼女の生前まで(他のスタッフも含めた)続けられていた。

 アイチ シシュ ホスピタル時代の彼女の、病院の中だけでなく、熱い中を病院の中で使う色々なものの買出しに、汗を流していた姿が目に浮かぶ。何度かは私も付いて行ったが、かなりの重労働だった。まだ子供がアケミちゃんだけだったとは言え、“よくやっていた”と言うのが実感だ。

 そんな頃の彼女の思い出と言えば、“スコール”(雨)がある。バングラデシュは乾季が3月に終わると、4月から毎日のように“スコール”がある。小さな低気圧がやって来て、まさに「一点俄かにかき曇り」ザーッと風が吹き出し、続いて大粒の雨が降り始める。木々が大きく揺れ、水しぶきが踊る様は、何故かスカーッとする。これが彼女が好きだった。“スコール”彼女が、家のベランダに椅子を出して眺め、キャーキャーと喜んでいた様子が思い出される。

 それと、変わったところでは、彼女は骨付きの肉が好きだった。バングラデシュでは、肉は牛より鶏が好まれる。その中の骨付きのところが彼女は好きで、ガシガシと肉を“徹底的”に噛み取り、しゃぶり取っていた。

 私は最近はバングラデシュに行くとホセイン家には宿泊せず、病院の一室を借りている。インターネットが繋がることなど、都合がよいのでそうしているのだが、食べ物はホセイン家から“弁当箱”で送ってもらっている。私が「野菜サラダがいい」と2年前に言ってから、昼と夜にはトマトとキュウリを必ず付けてくれた。ホセイン家の台所では未だに伝統的な切る道具(鎌の刃の部分を上に向けた金属製のもの)を使って食材を切っている。そのせいか薄く、揃った形には切れない。不揃いに切られたトマトとキュウリの片がどっさり入った円筒のアルミの箱(直径15cmくらい)が、毎昼食・晩食に出てきます。でもこれに私は感謝しています。

 そして、一週間に1〜2度くらい、しかも朝食時に2人前くらいのヌードルを出してくれてました。これにも感謝。

 私にとっては、やっぱり食べ物のことが、異国では一番問題なので、彼女の気遣いに感謝します。

 そして食べ物のことで、今年4〜6月に行った時に、新しく出来た日本食の店で“すし”を買って来てくれたので、早速彼女にモバイル(ケータイ)で“サンキュー”と言ったのが、彼女の思い出の最後です。

 以上、取り留めのない思い出話ですが、とにかくスウィーティーが「子供たちのためにと言うのが、私の心の全てです」と何度も言っていたのを、皆さまにご報告して、この文を終えます。(2009年11月10日 黒田徳治 記)


6月4日私立医科大学協会設立式でドクターホセインと


アンケルのバングラレポート

アイチホスピタルで活動する現地JBCSスタッフ・黒田徳治によるバングラデシュ最新レポート


− 第9回 −

 今年(09年)4月から約2ヶ月、バングラに行ってきました。暑かったです。行きの飛行機の中のテレビの情報に「到着地気温 31℃」とありました。しかし「何?」です。今は夜中の1時。まさか・・・何かの間違いだろうと思いました。ところが空港を出たら「ムーッ!」31℃は嘘じゃなかった。その後、ずーっと帰るまで、最高気温33〜35℃、最低気温27〜28℃、そして一日中湿度は70〜80%。参りました。夜寝る時でも天井のファンを「最強」にして廻しっ放し。それでも風邪なんかひきません。今回での天候の特徴は殆んど毎日のように夕方になるとスコールがあったことです。突如として、空が雲で真っ黒になったかと思うと風が吹き始め、続いてボタボタ、ザーッと大粒の雨が降り始めます。見る見るうちに道路は雨水の川になります。30分以内に治まりますが凄いです。と、こんなことを自宅で書いている今、かなり酷い雨が降ってきました。日本もバングラに負けてないですね。(余談)

 今回の目的は「こっちに来て、少し機械のことをお願いします」とのDr.ホセイン言葉と例の糖尿病患者のコモラさんの状況確認、それにJBCSから頼まれた総会での報告のネタどりです。ああそれと、「わが母校??」の看護学校からもバングラの話を頼まれたので、そのための写真とりもあります。

<新アイチホスピタルの建設開始>

 何と言っても今回の報告のビッグニュースはこれでしょう。この話は私達にはちょっと寝耳に水ですが、Dr.ホセインの話では現在のアイチホスピタルの家賃が、来年には大幅に値上げされるので急遽決断したとのこと。でも私達には嬉しいニュース。新アイチホスピタルの建設は、もともと医科大学の建設の前にあった計画です。行政からの誘いで、その計画が医科大学の建設に変更になったわけです。私達が苦労して見守り・育ててきたのは、やはりアイチホスピタルなのですから。

 完成予想図をここに載せました。12階建てでベッド数は200。当面は4階まで。それでも現在のアイチホスピタルの2倍の広さです。ベッド数は100です。来年には4階まで出来る予定です。建設予定地は今のところから北へ1.5km、チュラグと言う名の川の近く。すぐ前にこれも日本で学んだ医師が始めたサッポロ歯科病院があります。


完成予想図


お歴々の整列


導師さまのお祈り


子供たちの取り合い

 5月22日に建設祈願式をやりました。式の開始は夕方6時。写真のように白色の大きなシーツの上にお歴々が前に座り、導師様(?)がお祈りを唱え、その後院長Dr.ホセインの建設にいたる経緯の話があり、約30分で終了。そして引き出物が出席者100人ほどに1箱ずつ配られました。中身はミシュティーと言う砂糖で固めたような団子など。式を見に集まっていた近くの子供たちにもあげると言うので、子供たちは我も我もと取り合いでした。そして工事は6月1日に開始しました。

<アイチホスピタルと医科大学の現況>

 特に大きな変化はありません。データを載せておきます。医科大学病院の患者さんはずいぶん増えました。それに合わせて前には見なかった看護師さんが倍以上になりました。


アイチホスピタルと

医科大学の現況

<ボランティア診療>

 今は前とは違い、医科大学病院が主体のなってやっています。しかも月1回(月の最終土曜日)、各地にところを変えてです。しかし毎回医師が12〜3名、以下看護師、スタッフを含めて総勢40人くらいの大勢が参加しています。これもデータを載せておきます。

 今回私は4月25日と5月30日の2回同行しました。いずれもガジプールと言うところです。参加者が大型バスとマイクロバスに分乗して片道1時間半。朝8時半に病院を出発して現地到着は10時。行った先は田園地帯にある村の中。どちらも学校の校庭のようなところでした。もう周りの村からやってきた患者さんが列を作っています。事前に地元に連絡がしてあり、前もって渡してあったテントが設営され、「医科大学とJBCSの主催による無料診療」と書かれた横断幕が掲げられています。早速受け付け、各科に分かれて診察の開始。以前のように診察は無料ですが、ここでの薬品の提供はありません。しかし、診察の結果、入院・手術が必要となれば、それは全て無料です。診察は12時半くらいまでで、平均して毎回の総患者数は1500人。年間で18000人くらいでしょうか。診察は12時半くらいで終了です。


JBCSの後援を示す横断幕


患者さんの列


医師の診察

 終わったら地元の人が作ってくれた昼食をいただいて帰ります。とにかく地元の人たちにお世話になりながら進めていると言う感じが印象的でした。毎回、病院でソーシャルワーカーをしているアブドゥル・ハイさんと言う人が各地域と連絡を取り合って、主体になってやっています。

<Dr.ホセイン 私立医科大学協会立ち上げ>


演説するDr.ホセイン

 Dr.ホセインは、全国に41ある私立医科大学の国への貢献に見合った支援を国に求めるために、私立医科大学協会を設立し、初代の会長に選ばれました。6月5日に健康省の大臣を迎え役員の認証式が、バングラの最高級ホテルのシェラトンホテルで開催されました。その場で出席者400人を前にDr.ホセインは、次のように訴える演説をしました。

1.私立医科大学協会は、健康増進の分野に“革命的な変革”もたらす。

2.我々は、毎年政府系医科大学と同等に、2,000人の新しい医者を育てるために、大きな貢献をしている。

3.このため、新人あるいは現役の医者、教授と他単科大学・総合大学卒業生の16,500人の仕事をする場を提供している。

4.少なくとも25,000人の患者は外来診療サービスを得、7,500人の患者は入院診療を享受している。

5.これは、国にとっても政府にとっても、健康増進分野での大きな手助けになっている。

6.非政府系医科大学の毎年2400人の学生が国外に出て行く代わりの機会を提供することにより、14億円のお金の節約になっている。

7.インド、ネパール、スリランカとブータンからの300人以上の留学生が我々の医科大学への入学していることで、彼らから外貨14億円がもたらされる。

8.政府からの援助があれば、それだけ貧しい人達へのサービスができ、ベッドの25%は提供できる。

 当日はDr.ホセイン婦人、アイチホスピタルとイーストウェスト医科大学の関係者合計15名ほども招かれました。

<医科大学病院にガスシステム導入>

 日本の病院なら当たり前のものですが、バングラの中小の病院では、ガスシステム(酸素ガスや麻酔ガスなどの集中送気システム)はあまり普及していません。3年前に日本の病院の建替えに伴い廃棄処分になるものを譲り受け、バングラに送ってあったもの(システムの一部)を有効利用してシステムを構築することになりました。

 これが、今回私がDr.ホセインから頼まれたメインの仕事です。どの程度のものにするかを検討し、業者から見積もりを取って、これをチェック検討して業者を決定しました。Dr.ホセインはアイチホスピタルの院長、診察、手術、また医科大学の理事長、講師、病院での診察、手術など多忙を極めます。とてもガスシステムの細かなことに頭を使う余裕はありません。そこに、医療器械にはど素人な私にも果たせる役割があるという訳です。勿論、ガスシステムだけではありません。内視鏡装置、レントゲンのディジタル装置など、特に日本から譲り受けたり、中古品を購入したもののことなど日本のメーカーと連絡したりの仕事があります。

 今回のガスシステムは結局、日本のメーカーの現地代理店に発注が決まりました。しかし、そこまでが大変です。相手の能力がどこまで信頼できるかが、最も難しい問題です。第7回の報告で非常用発電機(停電時に使用するものですが、日本なら停電は年間1回も無い、まさに非常用ですが、バングラは1日に2〜3回停電があります)設置で、現地の技術者の能力判定に苦労したことを書きました。あの時は結局完成しないまま帰国してしまいました。その後何とか使える状態になり、今では医科大学・病院で発電機は無くてはならないものになっています。

 今回のシステムはまた違った難しさが有るのです。日本のメーカーとも連絡を取り合いながら、何とか設計の完成に漕ぎ着けたところで帰国になりました。でも前回の経験からこの後は多分問題無く進むと思っています。

<コモラさんのその後>


ちょっとオシャレしたコモラさん

 さて最後はスラムに住むT型糖尿病(生まれつきインスリンの分泌が少ないための糖尿病)患者のコモラさんのことです。第8回の報告(昨年09年10月)の時は、血糖値のコントロールが不調で心配しましたが、その後就寝前のインスリンを変更して落ち着きましたが、生活の状況とかが、やはり心配で今回は2ヶ月間じっくり彼女と付き合い確かめてきました。彼女は元気でした。体重も3年前には35kgだったのが、いまではずっと45kgを維持しています。彼女の身長から計算される標準体重は50kgですが、まあ45kgあれば御の字でしょう。

 昨年血糖値のコントロールが不調の時に、仕事のことはとりあえずストップさせていたのですが、ここまできたら本来の目標(普通の人通りに働くこと)を実行すべきです。「甘えていないで頑張れよ」と言っていたら、早速「仕事が見つかったよ」と言うので聞いてみたら、なんと夜勤の仕事とのこと。これが6月1日のこと。勿論仕事はして欲しいのですが、「いくらなんでも夜勤とは如何なものか」。血糖値のコントロールはどうなるのか、これまた心配です。早速インスリンなどの提供でお世話になっている「DMハンズの会」の山本先生に電話をして相談。「基本的には今まで通りの考え方でいいですよ」とのお答えを得て、インスリンの投与量を決めました。

 血糖値は私の帰国まで(6月15日)の15日間は、それまでと殆ど変化がありませんでしたので今は一応安心しています。いつまで仕事が続くのか分かりませんが、とにかく彼女が人間本来の姿を一生(毎食前と就寝前、合計日に4回のインスリン注射をしながらの)続けられることを祈ります。そして不可能かも知れませんが、少しでも生活が改善し、スラムから脱出できたらそれに越したことはありません。

 以上が今回の報告です。3月の日本から送った108台のベッドなどは、やっと5月21日に医科大学に到着しました。これにも“スッタモンダ”の問題がありました。これからの“新アイチホスピタル”の順調な建設を願いましょう。


2009年6月23日 自宅にて 黒田徳治



− 第8回 −

 本年(08年)3月に帰国して早くも7ヶ月が過ぎました。その間、JBCSのメンバーの発案で、バングラデシュ人と結婚され36年間在住されているフセイン営子さんと言う方に率いられた、バングラデシュの民族楽器演奏者6人のグループ(グラムバングラと言います。http://grambangra1.blogspot.com/を参照してください)による日本初のバングラデシュ民族音楽演奏会を、愛知県を中心として19回行いました。私はバングラデシュ民族音楽(笛を主体とした、のんびりとした田園風景を思わせるもの)が大好きですが、ともかくバングラデシュが、ただ貧しい国と言うイメージだけでなく、こんな文化を持った国であること。そしてそれが日本の東北地方にもあるような。例えば津軽三味線のように、貧しくとも素晴らしい演奏技術を持った“プロ”達によって受け継がれていることを知ってもらえたらいいなと思います。

 さてアイチホスピタルは、周囲に同業他者(病院)が非常に増えていますが、地域に完全に根付き評判を勝ち得ているため、相変わらずの盛況のようです。また医科大学・付属病院は昨年5月に新病院でスタートし、本年に入って5月からは毎月1回1日単位ですが、各地での無料診療ボランティアプログラムを実施しています。10月11日には大学から100kmほど離れたガンジス川の向こうの、院長Dr.モアゼムホセインの故郷、ナガルカンダと言う村に医師35名はじめ合計81名が出向いて行いました。診察した患者数は4,927名に上りました。そしてこのうち454人を大学病院に呼び寄せ、無料で検査や入院治療、手術を行いました。貧しい人達が多いため入院時の食料などを提供することまで行っています。

ところで、このレポートを作成するキッカケになったのは、他でもなく“スラムに住むT型糖尿病患者のコモラさん”ことです。彼女の糖尿病に関する状況が、ここ4,5ヶ月どんどん悪くなっているような様子なので10月12日から20日までバングラデシュに行って来たことです。

 彼女の血糖値のコントロールが悪くなって行っているのです。バングラからの糖尿病に関する情報は毎月1回のヘモグロビンA1cの値と体重の値ですが、そのヘモグロビンA1cの値が、一般に7%を超すと合併症の危険性が高まると言われているのに、順に増加して9.8%にまでなってしまったので、もう放っておけないと思ったのです。

バングラは、雨季は殆ど終わっていますが、まだまだ暑く、昼間は32,3℃です。それに夜が蒸し蒸ししていて、行っている間、夜も天井の扇風機は回しっ放しでした。しかも下着1枚で、何も被らないでです。

 今回の目的はまず@コモラさんの生活状況をみること。A血糖値の実際を確かめること。B合併症の有無を確認すること。そしてC血糖コントロールの方法を改善することの大きく言って4点です。


夜アイチホスピタルから

リキシャで帰るコモラさん

 さてその@ですが、コモラさんは、見かけは前よりも元気そうでした。Dr.ホセインも彼女は前よりずっと元気だよと言います。確かに体重も45kg(当初は35kg)になっていましたし、しかも今回、過去見たことの無い彼女の走る姿を見ました。8月からはスラムの目の前にあるビルでバングラデシュの最大の貿易品である“ガーメンツ(シャツなどの衣類のこと)”の梱包の仕事をしていました。と言うことで彼女の生活は少なくとも一見は、以前より良くなったと思われます。

 次のAの血糖値ですが、彼女は仕事の都合などで抜けたところちゃんとノートに記録を取っていてくれました。早速パソコンに入力して整理してみたところ、なんとヘモグロビンA1cの値とは反対に血糖値の月毎の平均値は下がっているのです。これでヘモグロビンA1cの悪化は“なんで?”と言うことになりました。以前1度ヘモグロビンA1cの検査について試薬の調整不良でおかしかったことがあったので、今回最近近くに出来た別の新しい検査会社でやってみました。“きっと良い値が出る”と思ったのですが、“豈図らんや”でした。逆に悪くなって、12%と出ました。前の9.8%と1週間位しか時間差がないので、1ヶ月の総合評価値であるヘモグロビンA1cがそんなに違う筈がありません。さてさて困りました。でもこうなったら事実として受け入れるしかありません。

 と、なるといよいよもって、Bの合併症が心配です。糖尿病にはご存知の方もあるでしょうが、三大合併症として腎症、網膜症、神経症があります。本当ならば出来ることなら、日本に連れて来て検査を受けさせたいところですが、例え経済的に出来たとしてもビザの取得が不可能です。そこで大まかにでも今回(私の仕事の都合で最大2週間)、スクリーニング的に検査することにしました。アイチホスピタルの内科医師やDr.ホセインの医科大学の眼科医師等に口を効いてもらい、これはという専門検査機関での検査や専門医師に診てもらいました。その結果は眼に若干の問題はあるが、心配すべき状況にはないと言うことが分かり、胸を撫で下ろしました。 この続きとしては検査結果を帰国に際し持参し、日本の医師にそれを見せて相談しています。今のところはバングラの医師の診断結果と異なる意見はありません。

 これで、合併症は心配ないことになったのは良いのですが、悪化の原因が分からないではCの血糖コントロールの方法をどうすればよいのかの見当がつきません。でも頭を抱えていても仕方ありません。血糖値が悪い(相対的には高い)のは事実ですから。 そこで今はコントロール方法を色々変えて見てどうなるかを検討しています。逆説的な方法ですが、結果良ければ全てよしです。色々な方に相談しながらやって見たいと思っています。

 今回はほぼ1週間のバングラ滞在でしたが、中味はかつてない濃いものでした。実は、ハプニングがありました。今回は状況次第で期間を延長するべく45日オープンの航空券を買った筈なのに、リコンファームしたところ、航空会社は“この券はFIXされている”と言うばかり。それが券の帰国日の3日前のこと。丁度土曜日。日本は月曜日にならないと連絡がつかない。券の帰国日は月曜の午前1時。どうしようもありません。まだまだやるべきことは多い。焦りました。とても他人から頼まれた土産など買うどころでは有りません。帰る日も朝6時から駆け回ったり、夜の9時までDr.ホセインと話し合いました。

 日本は金融危機の問題で騒いでいますが、バングラは物価上昇が加速しているようです。端的な例として、毎日コモラさんのスラムまで、行きは歩き、帰りはリキシャにしたのですが、3月の帰国までは片道10タカだったのが、今回はどう交渉しても15タカ以下にはなりませんでした。時間が無かったので他の価格がどうかは調べられませんでしたが、きっとそれなりに上昇しているでしょう。

 だとすると、コモラさんの生活はどうなるのでしょうか。8月から働いていて、その間1ヶ月1500タカ(2500円)もらっていたのですが、その仕事も会社が数日で移転すると言うことで仕事は終りです。お母さんがアイチホスピタルで働いて、今月給は1900タカ。私の友人が立ち上げてくれた基金から毎月1500タカ。合わせて3400タカ(5700円)が毎月の収入です。それに彼女の血糖コントロールが落ち着くまでは、やはり仕事をするのは危険なので、その間は仕事をしないように言って来ました。この物価上昇の中、一部の人からは4000タカ(6700円)くらいの収入は必要なのでは、と言われてもいます。これも何とかしなければなりません。今回の滞在中でのかなり施設のよいところ(日本よりも立派?)で実施した診察、検査費もバングラの費用としては結構大きなもので、頭の痛い問題です。

 などなど、今回はまさに後ろ髪を引かれる思いで帰ってきました。 これで今回の報告を終わります。


2008年10月26日 多治見の自宅にて




− 第7回 −

 ビザの関係で1月に帰国。3週間して3度目のバングラ滞在を始めて、早くも50日近く経ち3月20日になろうとしています。今、バングラは乾期の最後。いまだに雨はほとんどありません。そのため、道路は砂埃。気温は、昼間は30℃を超え、朝は20℃くらいです。ダッカは北緯23度(台湾の北部あたり)ですから、そんなに南国ではありませんが、日本に比べれば、相当に暑いと言えましょう。2〜3日前に夕方、入道雲が見えました。4月に入ると南国特有のスコールのような雨が降るはずです。そして、5月は真夏の感じです。

<アイチホスピタル>

 アイチホスピタルは相変わらず盛況です。しかし、以前にも書いたかも知れませんが、10年前に私が居た頃とは周囲の状況は一変し、よさそうな同業他者(病院)が非常に増えていますから油断はできません。物価も10年前の2倍以上で、従業員の給料も同様の中、安くてよい治療の提供を継続することは容易なことではありません。

<医科大学と付属病院>

 昨年5月に開院以来、無料診療キャンペーン何度もしながら、“出血サービス”のような低料金での診療を続けてきた成果が、ここになって現れてきたようで、かなり患者さんの数が増えています。そこで昨年12月に入荷した日本からの医療器具が役立っています。 ところで最近、日本の“世界の医療団”と言うNGO(本体はフランス、“国境なき医師団”から分離独立した)が、バングラデシュでの医療プロジェクト(貧困者への形成外科手術の無料実施)実施場所の一つの候補としての下見にやってきました。こう言うことはアイチホスピタルでのボランティア精神や、医科大学での形成外科手術向上のためには、非常に有意義なことですので、実現されれば願っても無いことです。

<ボランティア診療>

 そんな中でボランティア診療は、これまたウットラ地区の建設ラッシュによって状況は大きく変化し、スラムは激減(追いやられて)し、なかなか患者さんがやって来れない状態です。また、現在の選挙管理政府の“順法主義”(そのこと自体はよいが、あまりにも暴力的なやり方)によって、先立っても、ボランティア診療を実施しているところの近くの約500戸のスラム街が突然撤去された、と言うような状態です。

 余談ですが、ボランティア診療の日は金曜日ですが、ボランティア診療をやっている学校で、最近選挙人名簿への登録作業(住民を呼んで)が進んでいます。そのため金曜日も行われているため、ボランティア診療ができないのですが、そちらでもあるいはニュースになっているかと思いますが、今年秋にはやっと首相選挙が実施されそうです。首相選挙が実施されれば、結局政党による政治に戻ることになりますが、これが問題です。この国は1972年の建国(パキスタンからの独立)以来、“アワミ連盟”と“BNP(バングラデシュ人民党)”と言う二つの政党が政権闘争を繰り返してきました。どちらが政権を取っても、野党になった方が、与党に対してまるで“嫌がらせ”のようにストライキ(こちらでは“ハルタル”と言います)を2〜3ヶ月毎に行います。このストライキは全国的な交通遮断や商店の閉鎖が主体です。酷い時には3日間ほど続きます。ですからこれになると企業活動などがマヒします。それに比べて、この2年間は全くハルタルは無く安定していました。今の方がよっぽどましなのです。ただし、玉にキズは行政システムがしっかりしていないのに、規則通りにがんじがらめに行うので、時間が掛かっても仕方がないことです。

<非常用発電機>

 さて、今回の私の滞在は、前回も書きました日本から送った非常用のディーゼル発電機の稼動が最大の目的なのですが、やっと無負荷運転(発電しない)を終えたところです。一応ディーゼルエンジンは問題がなさそうで、ほっとしています。とにかく、こちらの技術者の技術がどの程度なのかがつかめず、心配のしどうし。全く雑かと思えば、以外なところで丁寧であったり。分かってないかと思えば、結構基本には忠実だったりで、何がなにやら、さっぱり分からずと言ったところです。それに、作業員がいつ来るのか分からないやらで、工程表が作れないなど、全く手を焼きます。しかしそれもここまで来ました。今は負荷試運転の準備をしていますが、やはりビザの関係で今月末には帰国しなければならず、やきもきしています。暑くなってきて停電の回数も増え、医科大学病院の患者さんの数も増え、勢い手術も増えていますから、非常用発電機の役目が非常に大切になってきています。負荷運転しても多分問題はないと思いますが、なんとかこの目で確かめて帰りたいと思っています。

<スラムに住むT型糖尿病患者のコモラさん>

 コモラさんはすっかり元気になりました。体重も43.5kgまで増えて、少しふっくらした感じになりました。最初に会った時の体重は35kg。ガリガリだったのが嘘のようです。

 しかし、実は前回お知らせした以降、一時期血糖値のコントロールがおかしくなり、最も重要視しているヘモグロビンA1cの値も悪くなった(以前は5%台だったのが、8%近くにまで上がりました)ので心配しました。しかも右足に浮腫を起こすなどがあり、検査をしたりしました。検査の結果は特に問題はありませんでしたが、何もそれまでと条件の変化は無い筈なのに血糖値が上がるのは何故かと思いましたが、そんなことを言っていても仕方がないので、少しインスリンの量を変えた(夜寝る前のN型インスリンを14単位から20単位に上げた)ことと、それまでヘモグロビンA1cの値がよかったのでやらなかった食前のR型インスリンの量を血糖値に合わせて増やす(血糖値200以上では5単位増やす)ようにしたところ、何とか正常値内の6.5%まで回復しました。少しほっとしています。 それで今は、とにかく仕事を探すように仕向けています。一度はシンガポール関係の幼稚園のような所に仕事が決まって、始めました。これはいい話しだと思い、“弁当箱が要る。血糖測定器などを入れるポシェットが要る”などと、言うので買って与えましたが、4日間くらいでお払い箱。仕方がないので、アイチホスピタルではどうかと尋ねたら、“いいよ”と言うので、紹介して面接をさせたところ、その場で“ここでは働きたくない”などと言い出す始末。私の顔なしです。若い女性の心は難しいなと言うのが実感です。今は一生懸命仕事を探しているようですが、いいのがなかなか見つかりません。彼女には“日本の同じ病気の女性だって皆働いているのだよ”と言い聞かせています。彼女も分かっている様子ですが、なにせ日本に比べれば男女不平等のきつい国ですのでそうは問屋が卸しません。いたし方のないところでしょう。

 去年は母親が警察沙汰になるなど色々ありました。これからも何が起こるか分かりません。一番ありそうなことは居住場所(スラム)が立ち退きを迫られることでしょう。そしたらどうするかなど心配したらキリがありません。柔軟に対処できるように今のうちケーススタディをして考えておくしかありませんが、バングラデシュのこと、予想外の問題が十分ありそうです。いざとなったら駆けつけ、状況をしっかり掴んで対処するしかないでしょう。しかし、当面のことはちゃんと体制を作っておきます。 今母親はアイチホスピタルで働いています。去年の今頃は建設仕事があったりなかったりで、非常に不安定でした。今の状態は安定しているとは言え、コモラ基金からの援助金がサラリーと同額ですから自立しているとはとても言えない状態です。それだからこそコモラさんが働かなくてはいけない訳です。

“さあ、もう少しだよ、コモラさん。とにかくお母さんと一緒に、生活を自立させておくれよ。これが、今の貴女の最大の目標なんだよ。”

 これで一昨年10月末からの一連の私のバングラデシュでの滞在は終了です。今月(3月)末には帰国します。これからは一年に1回は少なくともコモラさんの様子を見に来るつもりです。勿論、ホセインさんからのリクエストがあれば来ます。その時は皆様への報告ができるかと思います。

 拙い報告でしたが、お読みいただき感謝しております。


2008年3月25日 アイチホスピタルにて








− 第6回(サイクロン被災地へのボランティア診療の報告)−

はじめに

 今回のサイクロンは11月14日の夜のことです。そのときのこちらの様子については11月20日付のメールで臨時的にご紹介したとおりです。その中でDr.ホセインが「被災者にボランティア診療をしたいけど、交通手段が破壊されているので無理」と言っていたことをお話しましたが、その後やっぱり政府から現地でのボランティア診療の要請が来ました。公営の病院などはどこも医療支援に出ているようです。ボランティア診療は今も進行中(7日頃まで?)ですが、ここでは現地の状況などを含めて報告します。新聞記者でもなく、政府指定の場所でのことですし、事情もあり私は途中で戻ってきましたので、報告と言うほどのことが私には出来ないため、旅行記風にまとめますことをご了解願います。

準備

 今回ボランティア診療の要請があってから、実際に行くまで準備や手続き(指示書の交付)などで1 週間以上費やしました。その間、私はどんな準備をしたものか、迷いました。行く先の状況やらは殆ど分からず、テント暮らしにもなりそうだし、やはり先ずは食べ物、飲み物が心配。ドライフードを医科大学側で色々準備するようですが、それはどうもビスケット類のようです。事情が事情なので、日本人だからと言って特別なことを要求もできません。率直なところ私には、バングラの食事はそのままでは口に入らないので、日常はDr.ホセインの奥さんが用意してくれる食事を、私の好きな醤油とマヨネーズで味付けして食べています。事情が許せば、ご飯やらも出来そうなので、結局、1.5リットルのミネラルウォーター2本、何が出ても何とか食べられるように、手持ちの醤油とマヨネーズ、そして自分の口に合いそうなビスケット、中国製のインスタントラーメンなどを用意しました。何にでも対応できるようにと考えたため、却って量が増えてしまい、大きなリュック(日本から来るときに背負ってきたもの)がいっぱいになりました。Dr.ホセインの奥さんも心配して、特に水には気をつけるように言ってくれました。彼女は日本にも居たので日本人のことはよく知っています。 一行は医師2人、医科大学病院のスタッフ4 人、アイチホスピタルのスタッフ1人、調整役1 人、そして私の合計9人。看護婦は女性であり、現地に行くのは無理? 行く先はクルナ ディヴィジョンのバゲルハット ジラ。バングラデシュには6つのディヴィジョン(:管区。県に相当?)と、その中に幾つかのジラ(ディスクリクト行政区。郡に相当?合計64あり)があります。今回被害ら多かったのはクルナ ディヴィジョンとその隣のボリシャル ディヴィジョンで、いずれも南部の海岸沿いです。詳しくは添付した地図を参照してください。

出発

 病院を出発したのは12月1日夜8時。ダッカのバスターミナルから10時に長距離バスでバゲルハットに向かいました。
  バングラでの交通機関は圧倒的にバスと船。電車でなくディーゼルカーがありますが、10年前のことしか分かりませんが、首都のダッカ駅ですら、1日10往復程度。単線で屋根の上にも人が乗るようなものです。それに対してバスはどれもこれもオンボロ(どうしてあんなになるのかわかりません)ですが、凄い数です。夜中のバスターミナルは人でごったがえし、その中を物売りが大声を上げて売り歩く。因みに船も凄いです。ダッカの港もバスターミナルと同様な状態です。港はロケットと称する大きな遊覧船風の船で満杯状態。しかもこれまたオンボロで、世界中から古いものをかき集めてきたのじゃないかと思うほどです。しかも、日本では観光にしか使われない19世紀からやってきたような“外輪船”が、れっきとした定期船として走っています。
  途中、かの有名なガンジス川をフェリーで渡ります。川幅は約10km。向こう岸がやっと見える程度です。なにしろ夜間なので途中は何も見えません。10年前に3回ほど、同じルートでガンジス川を渡るところまでは行ったことがあるので、大よその見当はつきますが、道の両側は殆どが田んぼ。とことどころ、牛が草を食むのんびりとした風景を思い出します。あの時は暑い時期で、バスもオンボロだったのですが、今回のは大分ましなもので、10年間の時間差を感じます。フェリーからは三日月と冬の代表的な星座オリオンがくっきり見えました。感傷的な言い方ですが、どこに居ても変わらないのはやはり夜の空の月や星であり、見ると日本のことを思い出させます。
  フェリーから降りたのが午前1時。そこからはうつらうつらでバゲルハットに到着したのが午前5時。走行距離が凡そ250kmを7時間。外はまだ暗闇。ダッカと気温が同じとすれば15℃。少し寒く感じます。ボランティア診療を行うのはこの先とのこと。どこでやるのか確認のためか、ここにある病院までリキシャで向かう。病院に到着しても誰も居るわけでなし、とりあえず門を開けてもらって中の一室で休憩すること2時間半。朝の食事に町に出かける。そこでハプニング。店で注文しようとしたら、メンバーの一人である医科大学病院のスタッフが急に卒倒を起こし、結局ここの病院に付き添いを一人つけて入院することになる。それでメンバーは二人減で7人。今日5日に本人に会ったら、そのままダッカに戻ってきたとのこと。それからこの病院の責任者と話し合うこと1時間。今度はここの車で指定されたところまで向かう。私にはよく分からないが次のところで指定地のまた確認があるもよう。車で出発したのが9時半くらいか。とにかくバングラ人同士の会話は私の語学力では理解不可能。寝不足で頭が朦朧状態。ただ黙って付いて行くしかない。車で走ること約1時間。川に出た。そこから小船で30分。次の指定されたところも病院。そこでまたまた、話し合うこと1時間。やっと最終的な指定地がはっきりしたよう。また小船で指定地に向かう。途中、店で昼食をとる。ご飯を食べろ食べろと言われるが、周りのあまりの汚さに食欲もなし、変なにおいもする。ルティ(ナンの種類で殆ど味なし)にして、牛肉のカレー煮込みのようなものを食べる。そこらの古い板をかき集めて壁を作り、トタンで屋根を葺いた、どす黒く油汚れをした店。下手にそこらを触れない感じ。そんなところで、いくら水で洗った手だとは言え、彼等バングラ人は油でどろどろした液の中のものを手づかみで食べる。水だってどこの水か分からない。濁った水溜まりのような池からのものでも、コップに入れたら結構透き通って見えます。

目的地到着(第1日目)と被害状況


倒木の切り株


崩壊家屋

 余談が長くなりました。やっと最終目的地に着いたのが午後4時。前夜の出発から20時間後。そこはカオリアと言うところ。早速付近の状況を見ましたが、倒木が沢山あったり、崩壊した家屋がところどころ見られます。しかし、崩壊した家屋はどう見てもかなり古いもののようでした。家屋のある一帯は原生林の中の感じで、倒木の被害はあるものの、逆に木々が防風の役割を果たしたのではとも思われます。また、住民に尋ねたところ、この地域の人口は約5 千人で、死者は11人ということでした。でも、そんなに凄い被害があるようには見えませんでした。どうももっと南へ行けば被害の大きいところがあるようです。ここは海岸から4 0〜50kmですが、海岸から25km くらいまでの地帯は世界的に有名なマングローブの原生地であり、ベンガルトラの生息地でもあるシュンドルボンというところで、そこから内陸が酷い被災地のようです。ここの周りは田んぼで、住民の話ではサイクロンで水を被ったが今現在は稲に問題はないとのこと。これは2日目に行ったところも同じでした。 これは飽くまでも推測ですが、実は小船で川を来るときに川面に浮かぶ浮き草の流れる方向が1 日目と2日目では逆だったのに気がつきましたが、川の水面は海の満干の影響を受けていると思われます。ここを流れる川はガンジスの支流(分岐して海に注ぐ)ではありますが、川幅は優に1km はあります。4〜500トンはありそうな貨物船が行き来しています。とにかくバングラデシュは世界の大河ガンジスと、ヒマラヤの向こう側から流れてくるプラマプトラ川の河口に出来たデルタ地帯にある国です。海抜は国の90%は10m以下と言います。だから温暖化による影響が非常に心配されているほどです。なので陸と言ってもこの辺りは大きな中州と言えそうです。だから浮き草(川水の流れ) が潮の満干で向きを変えるのでしょう。そして今回のようなサイクロンによる高波(今回は10mとも言われている)が海岸線からかなり内側まで侵入したと思われます。住民も“夜2回水がやって来た” と言っていました。やって来るのは波です。津波は地震の振動に起因して、非常に大きな“海水の塊”が押し寄せるので陸地を襲うのは飽くまでも海水(塩水)です。しかし、波は水の上下運動だけが伝わるだけですから、川の水にその上下運動だけが伝わり、川の水が持ち上がって川岸の高さ(殆ど堤防のようなものはなく、削り取られた跡があるのみ) を越えた分だけ川の水(真水)が陸地に侵入する訳です。そして洪水の場合と違って上流の水が次々とやってくるのでもないので、サイクロンがおさまれば水は引いてしまいます。してみると、田んぼが被った水は真水であり、塩水ではないので稲の問題が少ないのだと思います。 その日は旅の疲れもあり診療はせず、夜はイスラム教国特有のマドラサ(信者の寄付で運営する寄宿制の学校。非常に多く、公営の学校と肩を並べる教育制度。当然宗教教育が主体だが一般教育も充実していると言う)の責任者の住居に宿泊させてもらいました。私など、ラーメンを料理してもらって食べる始末。尤も彼等はラーメンの何たるかを知らないので、焼きそば風にしてくれたのですが、結構旨く食べることができました。出発前のテント暮らしの予想とは逆にお客様待遇。

ボランティア診療と子供たちへのプレゼント(第2日目)

 あくる日、一行は二手に分かれ、一つはこの宿泊地で、もう一つは違う場所に移動することになり、私は移動するグループになりました。しかしまたまた小船で2時間。着いたところはショナカリと言うところ。時刻は11時。被害状況はカオリアよりは少なく、人口2 万人で死者8人と言うことですが、倒木や家屋の崩壊は殆ど見られませんでした。早速ボランティア診療の開始です。場所は高等学校。入口に我々の団体としての名前などを記した幕を掲げました。最初の患者さんは60代くらいの男性でした。その日夕方の終了までに診察したのは100名程度。アイチホスピタルから一緒に来たスタッフはショブジュ君と言って、病院の開設以来勤めている27歳で、通常は病院の機械電気設備のメンテナンスを一手にしています。彼はそれだけでなく、アイチホスピタルのボランティア診療も、12年前に最初から私と一緒にやって来ており、彼なりにボランティアでのあるべき姿を持っています。彼は学校は4年間くらいしか行っていませんが、丁稚奉公のようなことをしながら、とにかく素晴らしい勘で仕事を覚えた人間です。今ではDr.ホセインの信頼は厚く、医科大学の仕事も手伝っています。その彼が、この日の診療では医師の補佐役を務めました。何しろ12年間も見てきていますから、なかなか堂に入ったもので、ベテラン看護婦顔負けです。血圧測定など軽がるとこなし、患者からの症状の聞きだし、今後患者が気をつけるべきことの説明、薬の飲み方など、医師の補佐役として目を見張るものがありました。ここまでやるとは、いつも一緒にボランティア診療をやっていながら気がつきませんでした。 さて、診療はそんなところですが、今回は被災地の子供たちにビスケットをプレゼントする目的もありました。これも実はショブジュ君の提案です。私も何か出来たらとは思っていたのですが、具体的な提案は彼です。ビスケットが5 〜6枚入った小さな袋を1000個ほど用意してきました。それを診療が一段落したところで、子供たちの一列に並んでもらってショブジュ君の配ってもらいました。子供たちがワイワイ言って喜んでくれたのが印象的でした。今回の費用は5千タカ。日本円で900 0円弱ですから本当に大したものではありませんが、それにはスラムに住むT型糖尿病患者のコモラさんへの援助を含めて、私のバングラでの活動のための支援基金を、私の高等学校時代の友人たちが中心に集めてくれているのを使わしてもらいました。本当はもう少しやればよかったと思いますが、なにせ出発前に、行った先でどうなるのかが予想できなかったので、この程度になってしまいました。 その日ボランティア診療が終わったのは夕方の5時。色々事情もあり私とショブジュ君は、そのままダッカに帰ってきました。途中のバスステーションで、知り合った(誰でも盛んに声をかけてくれます) 人の話から、首の周囲に大きな腫瘍ができて困っている貧しい人にダッカに来ればアイチホスピタルで無料で診療(手術)してあげることを約束しました。多分知り合った人が交通費など、何とか工面して送ってくれるでしょう。そのバスステーションを夜8時半にバスに乗り、アイチホスピタルに着いたのはあくる日の朝4時半。これで被災地訪問とボランティア診療の活動はお終い。 全く私の個人的な話ですが、今回の行動のスケジュールは足掛け4日の3晩のうち2晩が夜行バスと言うかなりのハードなものでしたが、その割りに疲れが少なく、ある程度は快適にやれたのは、非常に蒸し暑い夏の時期でなかったこと、そしてショブジュ君を筆頭に、難しい私の面倒を見てくれた同行者の人たちのお陰だと思います。またそして行った先の、例えば“焼きラーメン”を作ってくれた人のような、バングラの皆さんの協力があったからとも思い、感謝しています。



2007年12月4日 アイチホスピタルにて







− 第6回(コモラさんについての報告) −

 8月の末に帰国し、再度バングラへ来てから1ヶ月以上が過ぎました。今、バングラの気候は日本で言えば5月頃の感じです。日本はかなり寒いようですね。今日12月4日のヤフーの天気情報によれば、名古屋が最高温度9℃、最低温度3℃に対してここダッカは最高温度26℃、最低温度15℃で、10℃以上の差があります。でもこのくらいの気温のなると、バングラとしてはかなり“快適”です。それは湿度が夏の時期には80%以上ですが、今は70%以下で蒸し暑さは殆ど無いためです。緯度が23度(名古屋は35度)なのがその原因でしょう。因みに緯度が15度のタイのバンコクあたりはこの時期でも30℃以上でかなり暑い状態です。

 さて、今回は二つのテーマを中心に報告します。一つはスラムに住むT型糖尿病患者のコモラさんのこと、と二つ目は例のサイクロン被災地にボランティア診療に行ったことについてです。


真夜中の荷下し人海戦術
 その前に、私のこちらでの仕事の関係について話させていただきます。今回再度こちらに来た理由は、昨年日本から送った非常用のディーゼル発電機の稼動と、今年送った医療機器のセッティングです。非常用のディーゼル発電機についてですが、機械としては冷却システムなど色々問題があります。でも私としての問題は、こちらのエンジニアと称する人達が原理的或いは理論的な考え方をしないことです。とにかく“経験と勘”だけでしか話ができず、非常に困っています。確かに、彼等の少なくとも“勘”はかなりのもののようですが、どうしても細部についての不安は拭いきれません。例えばディーゼルエンジンの冷却水システムについて「船で使っていたものだから大丈夫」と言うだけで、どんなものなのかが説明できないような物を持って来ようとする。システムの配管系等の図面なども、配管のサイズなど全くなし。ポンプの大きさを示す、どれだけの水をどのくらいの圧力に高めることが出来るのかについての記述も全くなし。これでは、私としてはお手上げ。しかも私は技術者ではあるが、元々、製造メーカ関係の人間ではなく、使用者側の人間であり、製造メーカが提出したものの正否を判定するだけであり、製作図面などは書いたことがありません。しかし、困った困ったでは進みませんので、安全サイドをモットーにしてことは進めますが、率直なところ非常に心配です。これで、この問題の愚痴はお終い。

 もう一つの医療機器のセッティングのことですが、今はその前の入荷の段階で、税関とのやりとりががやっと終了し、最終判定(税額)を待っているところです。ここ迄でも1ヶ月以上要しました。とにかく法律が毎年ころころ変わり、しかもどうも公には分からないようで、今回の手続きが始まってから実は昨年までとは異なり、医療品については中古のものは輸入禁止だと分かり、急遽新品として申請することとなりました。それで“非常に安い新品”としたのですが、例えばビニール張りの4人掛けのソファーについて税関は「日本のものにそんな安いものはない筈」などと言い、高い関税をかけてくる始末など、全く想定外のことになってしまいました。しかも1日2万円以上の荷物の保管料金がかかっています・・・とここまで書いたところで夜の9時、Dr.ホセインから電話がはいり、「今日最終決定したので今からコンテナーが病院に到着するので荷下ろしに行く」と言うことで私も早速駆けつけることにしました。ですからここからは翌日書いたものです。

 荷下ろしが始まったのは夜の10時半。日本のようなフォークリフトなんてものは全く無く、全て人海戦術。それも病院のスタッフなど20人くらいで、しかもコンテナーはトレーラーに乗ったままの状態(大人の目の高さくらいがコンテナーの底面)です。私から見ればどうやったらよいか途方に暮れるようなことを、大声で掛け声を掛けながら、まさに寄って集ってやってしまう。最初はハラハラしましたが、よく見れば彼等のすることは非常に慎重です。重量が200〜300kgもある物を色々工夫して、しかもちゃんと滑り止めなどをして、そこらにあるものは何でも使って(ロープを縒ったり)、やってしまいました。私は午前3時過ぎまでいましたが、多分4時ころまでは掛かったでしょう。彼等は途中ビスケットを食べながら休憩。とにかく彼等はこういう力仕事はお手の物、しかも文句一つ言わずによくやります。全く私は彼らには脱帽です。彼らのなかにはDr.ホセインの弟も二人。一人は先頭に立って指揮していました。

 前置きが長くなりましたが、次にスラムに住むT型糖尿病患者のコモラさんのことを報告します。
8月に私が日本に帰ってからは、アイチホスピタルの副マネージャーのポラシ君が彼女の面倒を見てくれました。久しぶりに会った彼女は何かふっくらして元気でした。早速、体重を量ったら37kgです。以前も一度このくらいの体重になったことがありますが、直ぐに35kgに戻ってしまったのですが、今回はどうでしょう。彼女の母親にアイチホスピタルの仕事を紹介して、給料1500タカ以外に1000タカ補助した結果がどうでるかです。血糖値のコントロールの指標となるヘモグロビンA1cも、私がいない間でも正常値の5.3%でした。そして11月24日に体重測定したところ40kgになりました。これで何とかうまく行きそうです。11月27日のヘモグロビンA1cの値もやはり正常値の5.0%。そろそろ彼女も仕事を始めてもよさそうです。彼女も仕事をしたがっていますが、今のところ見つかっていません。彼女に聞いたところ、小学校5年生まで勉強した後、5年間くらいガ−メンツ(縫製)工場で働き3000タカくらいの給料を貰っていたとのこと。(その後にT型糖尿病が発症)その頃で3000タカならかなりのものだと思います。私が10年前に居た時には1000〜1500タカ程度で安月給の代表的な仕事だったと記憶しています。日本でも縫製工場の女工さんについては、飛騨高山から信州諏訪の縫製工場に働きに出た少女が、安月給で無理をして酷い病気になり、仕事が出来なくなったため、彼女の母親に背負われて高山に戻る途中の野麦峠で息絶えた物語「女工哀史・ああ野麦峠」にあるほどです。それは別にして、現在このアイチホスピタルの看護婦さんの給料も同じようなものですから、彼女はかなり有能な女工さんだったのではないかと想像します。何か彼女は、工場のマダム(?)によくしてもらったというようなことも言っていました。そんな働き場所が見つかればよいのですが、交通費を使わない範囲に見つけるのは、こちらが思うほど簡単ではないようです。アイチホスピタルでと言うこともありますが、病院の事情もあり、無理は言えません。彼女の母親への補助について、どうも不足しているようなので、思い切ってもう500タカ上乗せし、当面月3000タカの収入を確保して、とにかく生活を安定させることとしました。これで彼女の体力をしっかりとつけさせて、こらからは積極的に就職を強く促すことにします。以上がコモラさんについての現状です。

さて次はサイクロン被災地へのボランティア診療についてですが、これは別紙にします。


2007年12月4日 アイチホスピタルにて







− 第4回 −

 こちらはもう真夏です。先日、インターネットのヤフーのページの世界の都市の天気予報を見たら、ダッカで朝26℃、最高温度は36度と出ていました。しかも湿度が92%でしたので蒸し暑さも相当です。夜はとうとう天井ファンを回し放しにしました。ところがここ2〜3日、異常なほど涼しくバングラの真冬に戻った感じです。それでも今日は大分暑くなってはいます。

さて、今月は殆どニュースはありません。先ずボランティア診療のことからですが、ここ1年3ヶ月の院外の場所別の患者数は下表のとおりです。

場所別院外ボランティア診療患者数

  バイジュリスクール トゥムリア ナゴリ シェラガリ キールケット 医科大学病院 月合計
1月 239 0 129 266 130 0 764
2月 379 124 122 124 134 127 1010
3月 558 111 115 370 138 0 1292
4月 385 125 121 124 0 0 755
5月 355 120 120 215 0 131 941
6月 409 124 125 251 0 133 1042
7月 117 110 0 251 120 126 724
8月 416 120 140 113 272 307 1368
9月 264 119 143 256 137 145 1064
10月 不明 不明 不明 不明 不明 不明 520
11月 427 0 0 0 0 93 520
12月 188 0 0 0 0 99 287
1月 46 0 0 0 0 24 70
2月 133 0 0 0 0 244 377
3月 234 0 0 0 0 456 690



塗装塗り替え、新品のアイチホスピタル
 私が来てからはバイジュリースクールと医科大学病院だけでやっており、患者数が激減しています。
 この4月からは医科大学病院での診療は日曜日になりました。それで最初の8日の日は周囲の住民への通知を忘れたため23人と非常に少ない結果になってしまいました。反省。

 附属病院の建設は、日程的に非常に苦しい状態です。皆さんが来られる時までに、どこまで出来ているか、非常に心配です。いつも強気なDr.ホセインも若干心配そうです。それでも、今月中には医療装置をセットしようと頑張っています。来て見て“なーんだ”と言われそう。尤も今は、資金のことで頭を悩ませています。しかし、オープニングセレモニーは予定通りやりますが、その日の時間などはまだ決まっていません。

 バングラデシュの政治状況ですが、大統領選挙は相当先になりそうです。それで今は、選挙管理委員会のようなのが行政を担当していることは前にお知らせしましたが、その後も同じで、要は規則が有っても守らない汚職政党の政治から、徹底的に規則通りに守らせる政治になっているため、今までは消費税とかの税金をアンダーハンドマネーなどで誤魔化して来たのが今は通らなくなり、実際的な説明はしませんが、そのことでかなり影響を受けていることは確かです。

 ところで、3月26日はバングラの独立記念日でした。10年前の時の印象では1日中テレビが独立戦争の時の様子など、かなり激しい惨状を放送していましたが、今回は空軍のパレードの様子などの放送だけで、後は普通のドラマなどが放送されていました。尤もテレビ局も前は一つしか無かったのが今は5局くらいあるので、それだけ薄くなってしまったのかも知れません。10年一昔とはよく言ったものですね。前に書きましたが、ここウットラの様子も全く様変わりしており、ケイタイの大流行もあります。ケイタイについては、あの“ノーベル平和賞”受賞者が経営するグラミンフォンと言う会社が、かなり貢献しており、1千万人以上に普及していると聞いています。全てではないですが、リキシャの“漕ぎ屋”ですら持っていますから驚くべきものです。また、街には机1つを置いて、1分2〜3タカでケイタイを使わせる一種の公衆電話のような商売もあります。

 今、バングラは稲の刈り入れの時期です。今年1月にこちらに来た頃、田植えが済んでいたのが今実ったと言うことです。医科大学は少し郊外の感じのところにあり、そこまで行く途中、チュラグと言う川の広い河川敷のような所が水田になっており、そこで稲刈りが進んでいます。あのバングラの国歌“黄金のベンガル”とはこの稲が実って金色に輝く様子を歌ったものです。

 さてこのところ、日本人の患者さんが2人続きました。最初はJICAの人の子供さんで、下痢で入院しました。この人には、男の子5人の子供があり、奥さんが“大変”と言っていました。そしてこのJICAの人は電力会社の人で、私には少し「懐かしく?」感じられました。早速バングラの電力事情の情報を頂くことにしました。もう一人は今日(14日)のことです。若い男女で、どうも世界を“貧乏旅行”のようなことをしているようです。男の人が相当参った様子でした。実は今日はバングラの新年で国民の休日ですが、そのため大使館も休み、例の“山形病院”も休みで、アイチホスピタルに電話したら、私が出たので大分安心したようです。病気は「腸チフス」のようです。バングラでは珍しくありません、この病院でも何人か見ました。2〜3日入院すれば直ると思います。

 これから皆さんが来られるまで、“準備万端整えなければ”とは思いますが、どうなることやら。
 ではそれまで。


2007年3月14日 アイチホスピタルにて







− 第3回 −

 こちらはいよいよ暑くなって来ました。この1週間で随分気温が上がったように思えます。多分最高温度は30℃を超えていると思います。昨夜からは被り物はタオルケット1枚にしました。朝夕はなんとか涼しく、蒸し暑さがないのが救いです。

 先ずボランティア診療のことからです。2月から3月にかけて、丁度金曜日に行事などが重なり、2日間出来なかったために月間の患者数は低いままです。バイジュリスクールでのボランティア診療はアイチホスピタルから出張して行ないます。最近は医師1人、看護婦1人、スタッフ1人、それと私の合計4人のことが多く、時々は薬会社の人が来ますが、とにかく薬のことで大変です。薬は前もって薬会社に注文するのが原則です。そして色々な会社のものがあります。まず同じ種類(成分)でも会社によって違う名前があり、それが混在します。医師は薬の名前を処方箋に書きます。種類が20種類もあり、名前が違う。シロップと錠剤の違いもある。私が事前にその日ある薬のリストを作っておくのですが、医師が薬の名前を処方箋に書いても、それが1個とか、2個しかないと、種類(成分)の同じ違うものに変更するように医師に話すとか、と言ったことがしょっちゅうあります。いっぱいある薬の中から探し出すのも大変。なにせ例えば薬を運ぶにしてもリキシャで運ぶことが多く、種類ごとに綺麗に整理してなどとても出来る状態ではありません。行った先もちゃんとした机や椅子がある訳でなし。私は薬の名前もとてもまだ覚えていません。また一方患者さんの病気のことも看護婦が書くデータ表を見ながら、医師に聞いたりすることもしなければなりません。ゆっくり患者さんと話す余裕は、今はありません。とにかく疲れます。また言い訳。



寄宿舎の部屋


附属病院の建設風景

 医科大学は新入生を迎えました。大学はまあまあ順調に行っているようです。この前の休日の土曜日(大学は土曜が休みのところがおおいようです)に3回生の両親を招いて大学での様子を伝える日がありました。1人の学生について年に2回もやっているとのことです。そして学生の試験の結果なども見せています。今は日本でもこんな大学があるのでしょうか。大学の4・5階にある女学生の寄宿舎の部屋を見せてもらいました。1部屋に2〜4人くらいでしょうか。まだ出来たばかりのこともあり、広さも日本の感覚から言えば結構あり、まあまあだと思います。さすが女学生ですから中は綺麗に整理されていました。

 附属病院の建設は、これまた順調と言えるのだと思います。ただしなんとも説明が難しいのですが、日本人の感覚と全てが違う感じで、これで「いい悪い」はとても私には言えません。2月の26・27日にとりあえずの新規オープン迄に完成させる3階の天井(4階の床)の半分のコンクリート打ちがありました。今までに写真などで紹介されているように、総勢200人以上でやりました。コンクリートを金属製のお皿に入れて頭に載せて運ぶのは男性。女性はコンクリートの入ったお皿を男性の頭の上に載せる手助けと、コンクリートミキサーに小石や砂を入れる役です。朝8時から夕方6〜7時までの2日間でした。後の半分が、このレポートが届く頃にある予定です。コンクリートを流し込む床の型の支えは全て太い竹です。まるで竹のジャングルです。その方法など工事のことを知っている人なら、「へーっ」と思うような結構面白いやり方をしているのが分るでしょう。これで建物の躯体(柱と梁と床)は出来ました。これからレンガを使った間仕切り壁など内部の工事になります。と言うことで、附属病院のオープンの話ですが、Dr.ホセインは5月18 日(金)に決定しました。この日は皆様ご存知のとおり、アイチホスピタルの創立記念日(11 周年)です。そして日本の皆様の出席を望んでいます。今までお世話になった方々への招待状も準備しております。


  さて今回は是非とも「スラムに住むある若い糖尿病患者(コモラさんと言います)」の話をしなくてはなりません。委員の方以外にはお話していないことです。

 昨年11月の17日にバイジュリースクールでのボランティア診療に18才の彼女は、母親に連れられてフラフラしながらやって来ました。膝に軽い壊疽のある状態でした。かなり弱っているようでしたので、アイチホスピタルに来るように話したところ、早速あくる日にやって来ました。Dr.ホセインの診断は「若年性のT型糖尿病」でした。私はそれまで「若年性のT型糖尿病」のことは知りませんでした。「若年性のT型糖尿病」は、膵臓で産生されるホルモンであるインスリンが、生まれつき非常に少ないために、所謂成人病で問題になる糖尿病とは違って、一生インスリンを補給しないと生きていけない病気です。10年以上続くと非常に厄介な合併症を引き起こします。彼女は今のところ合併症は出ていませんが、体重は極度に落ちており、全く元気のない状態です。彼女のようなスラムの人の場合、一般的に見つかる前に亡くなっているのが普通で、見つかるのが非常に稀なようです。

Dr.ホセインと、私が日本に居た時にご協力をお願いした方々のご協力のお陰で、今はなんとかインスリン補給による治療を続けています。まだとても安定した状態になっていませんので、日本の専門医の方とも相談しながらインスリンの種類らや量を色々変えたりしています。私は日に2回くらい彼女のスラムの小屋に行って血糖値の測定をしています。彼女は母親との二人住まいで、スラムの人間ではインスリンを自分で調達するなど全く不可能なことです。そしてなんと言っても最大の問題は、一生インスリンを打ち続ける必要があることです。体重が極度に落ちていると言う事は何も出来る体力がないと言う事で、今は寝たり起きたりの毎日なので、なんとか少しは仕事ができるようにしてやらなければいけません。血糖値のコントロールが出来るまでが前段階で、それから一生の問題として道筋をつけるのが後段階です。私としては当面、日本の方々の種々の協力を得ながら続け、最終的にはこのバングラデシュの国でその道が拓けなければならないと思っています。

  以上が、スラムに住むある若い糖尿病患者ついての簡単な報告ですが、日本の皆様の有形無形のご協力をお願いします



「ボン ボジョン(直訳すると“森を食べる”ピクニックのこと)-2007」とあります。その下はアイチホスピタル・・・と続く。


Dr.ホセインのスイカ割り

  ところで、難しい話しはここまでとして、楽しい話を一つお伝えしたいと思います。それは、去る3月2日(金)に行なわれたアイチホスピタルの従業員による初めてのピクニックのことです。貸し切りバス1台を仕立てて、ダッカから北へ約200kmのシェルプールと言うところにある自然公園でした。Dr.ホセイン家族を入れて総勢50人ほどが参加しました。当日は生憎、曇り空で時々パラパラと雨が降る天気でしたが、公園にいる間は薄日がさし、まあまあでした。そこはインドのアッサム地方と国境を接するところで、バングラデシュでは珍しい“丘”(高さはせいぜい100m前後か?)になっていました。それでも樹木が少ないため見晴らしは結構よいところでした。そこで皆三々五々歩き回った後、持ち込んだ大鍋で昼飯を作って食べました。と言っても、作るのはその公園の人達です。芝生のようなところにシートを拡げ車座になっての食事は結構おいしかったです。(ただ食事の後、近くの貧しい子供や大人が残飯を貰って歩く姿があり、バングラデシュの裏面を見る感じでした)その後、「スイカ割り」ならぬ「壷割り」などのゲームを楽しみました。それとゲームとしては“クッション回し?”(誰かがお皿を叩いている間、輪になった人達の中で小さなクッションを隣の人に回して行き、お皿の叩く音が止んだ時にクッションを持っていた人が負けになり輪から外れ、最後まで残った人の勝ち)のようなゲームで、日本でのことを思い出しました。

 しかし、いわゆる高速道路のないバングラデシュですので、片道の正味時間は4時間。行きは途中で地方の喧嘩騒動に出くわし、帰りは一緒に行った医師の一人が心臓発作で、途中の病院(Dr.ホセインが卒業した医科大学附属病院)で診察を受けると言うハプニングがあり、朝7時に病院前を出て帰ってきたのは夜の10時半。疲れました。

  そう言えば朝出るときに、バスのセルモータが働かず、男数人で大きなバスのエンジンを押しがけしたのには、びっくりしました。行った先でも、他のバスがやっていました。苦も無く日常茶飯事的な感じで、これもバングラデシュならではですね。

  後は簡単に一つ。2月21日は何の日かご存知ですか?「インタナショナル ランゲージ デー(国際言語の日)」です。2002年に国連の機関で設定されたものだそうです。この日はバングラデシュの休日です。と言うのもご存知の方もあると思いますが、バングラデシュがパキスタンから独立した契機となったのが、ダッカ大学の学生によるベンガル語の公用語化運動(何人かが命を失った)なのです。それでダッカ大学の近くでは2月の1ヶ月間、図書販売が集中的に行なわれます。これまたバングラデシュ特有で、日本では身近に感じないものですね。レポートしようと思ったことは、まだまだありますが、またの機会にします。


2007年3月14日 アイチホスピタルにて







− 第2回 −

 JBCSの皆様。ビザのための突然の帰国の節は、大変ご迷惑をおかけしました。

 1月21日に改めてバングラに来てから、もう20日以上になります。こちらはまだまだバングラとしては非常によい季節です。長袖のシャツで、時に少し寒く感じる程度です。前回の経験では、3月に入ったら気温は30℃になる筈です。近頃は乾期がそろそろ終わるのか、ちょこちょこと雨が降ります。

  さて、先ずはボランティア診療ですが、私の行いが悪い所為か、患者が非常に少ない状態です。詳しくは添付ファイルを見てください。医科大学の仮設の病院は、私にはまだ馴染みがなく、正直なところ、あまりうまくいってません。ボランティア診療は私自身が始めたようなものなのに、何か未だにスムーズに出来ません。薬の“あれがない、これがない”とか、どうしたらよいか、戸惑っています。前やっていた人は皆忙しいので、私が頑張らないと進みません。とにかく、後は私の努力次第です。そんな、こんなでスラムの人達の実情をお伝えできるのは、まだ大分先になりそうです。ご容赦を。添付ファイルについて何かご質問があれば、お知らせください。なお、ボランティア診療は医科大学・付属病院の建設が一段落するまでは、バイジュリ小学校と医科大学の仮設の病院との、2箇所だけでやることになるでしょう。



どうです?このカラフルなトラック

 ホセインさんは、相変わらず忙しい毎日を送っています。朝は8時過ぎから入院患者の回診をして、9時半過ぎには外来患者の診察を始めます。これも相変わらず大勢で、午前と夕方からの診察で夫々50人以上は診ます。昼の12時半頃には診察を終え、それから医科大学に来て、色々な人と会って話しをし、建設の現場を見て周り、終わるのは2時半過ぎです。それから昼食です。夕方は6時過ぎから外来診察です。合間に手術があったりして、夕食は10時過ぎです。

 医科大学と付属病院の建設工事は、ほぼ順調に進んでいます。と言っても、実際のところは私自身が建築専門でない(機械が専門)ことがありますが、それにも増してバングラデシュのやり方が分らないため、ホセインさんの受け売りで言っているに過ぎません。これは中々説明が難しいことです。例えば安全のことで言えば、ヘルメットは勿論、靴なし、手袋なし、足場なし等等、ないない尽くしです。“こんなんでよくやるなあ”と感心?してしまいます。転落防止の設備など全くありませんので、現場は全く“恐ろしい所”です。うかうかしていては歩けません。生命保険にいくつ入っても足らない感じです。だから、私はまさにゆっくりと、亀の如く恐る恐る歩いて、現場を見て廻っています。“なんだ、あの外人は、モタモタして”と周りの皆は思っているかも。

  ここまで書いているところで午後7時、“アザーン”の放送が聞こえてきました。そうです、イスラムの、日に5度の礼拝の呼びかけです。ゆったりと町中に響く、その歌うような、そして張りのある声(!)。前回いた時から感じていますが、何か心休まるメロディーで、昔どこかで聞いたような気がします。是非一度お聞かせしたいと思います。朝、起きる前に床の中でも聞きます。

  ところで、先だって二人の、会員の一部の方はご存知の人に会いました。一人は小島昌夫さんです。彼はもう50歳を過ぎていますが、今、ダッカ大学の学生兼日本語学校の先生をしています。20年前に海外協力隊でバングラに来て茸の栽培を教え、その後日本で山仕事をしながら、ベンガル語の勉強をして5年前にダッカ大学へ自費留学しました。今は学生寮に住んでいるとのことですが、このバングラでよく頑張っているなと、感心しています。例のエクマットラの渡辺さんも一緒だそうです。もう一人は、前ホセインさん家族の運転手をしていたヌルノビ君です。君と言いましたが、もう彼も35歳で、一児のお父さんです。以前バングラに行った方は、多分彼が色々サービスしてくれたと思います。ちょっとしたことで、ホセイン家族とは離れたのですが、今でもスウィーティーとは電話でですが親交を持っているようです。前回の私は、実に色々と彼のお世話になり、今でも本当に感謝しています。久しぶりの再開に、彼も私も涙しました。今は、フランス系の会社で結構よいサラリーを貰って(今のアイチホスピタルのマネージャより高いサラリー)、素晴らしいテレビを持っているほどで、それでNHKのニュースを見せて貰いました。とにかく安心しました。

  書き出したらキリがありませんが、最近の状況をお話します。そちらのマスコミで、バングラの何か恐ろしげなニュースが最近放送されたようですが、とにかく一般人には関係のないことで、それこそイラクなどのテロのように、何処で何が起こるか分らないような状態では、全くありません。ホセインの解説を元に簡単に説明しますと、今は選挙管理委員会のような組織が行政を行なっています。問題はいつも政党にあり、今はその政党が顔を出していないだけ、逆に治安はよいということなのです。ただし、軍や警察の力が強いので変な話ですが、徹底的に法に従わせるように動くため、例えばこの前のように汚職政治家を、多数強制連行したりするのが暴力的で、ニュースになるようです。

おやおや“赤帽”さん?こんなところでご苦労様。この前は“アイリス”さんも走っていましたよ。前居た時は“吉本興業”も何を催しにきたのか見掛けました。

 このような動きの一つのとして、アイチホスピタルにも影響しそうなことがあります。実はアイチホスピタルはレンタルハウスで、6階建の内、1階は法的には本来駐車場であるべきなのですが、それを軍や警察が強制的の取り締まる、つまり破壊すると言う情報と、実際直ぐ近くの違法建がブルドーザなどで強制破壊されると言う事態が起きています。なんせ、病院は1階に最も重要施設があり、ホセインさんの診察室はもとより、他の医師の診察室が全てある訳で、もしそうなったら、大変なことです。まだ事態は終わった訳ではなく、今も動きを注視し、緊張状態にあります。

  と言うことで、一見恐ろしそうに見えますが、危害を被ると言う様な心配はありませんのでご安心ください。

 さて14日はバレンタインデーでしたね。こちらでも話題になります。ホセインさんも看護婦さんから花束を貰いました。そのことで、皆に聞いたところ、日本のテレビ番組で何か、チョコレートを溶かしたような物を、どうとか、こうとかしたと言うのがあったそうです。とにかく、日本のテレビ番組(NHKの国際放送など)が結構受けてて、“忍者ハットリ君”ですか?この番組をホセインさんの子供もよく見ています。それと、未だに“おしん”のことを言う人がいます。

 以上で今回のレポートを終えますが、先に送った“ビッショ・エステマ”の話や、このレポートに追加して送る医科大学の入学式の様子も参考にしてください。そして、何でも結構ですので質問を、是非ともお願いします。皆様がどんなことを知りたいのかも、私の励みになりますので。なお、例のT型糖尿病患者のコモラさんのことですが、とにかく安定しないので、2月5日に再度入院しました。また、ゆっくり報告します。


2007年2月14日 アイチホスピタルにて



脅威のムスリム大集会 “ビッショ・エステマ(バングラデシュ)”


最終日、見渡す限り続く男の人波!

 まず最初に、お願いいたします。写真は少し付いていますが、以下に書く状況については、読まれる方の精一杯の想像で補っていただけたら幸いです。

 ビッショ・エステマは、バングラデシュで毎年2月に、3日間にわたって行なわれる、イスラムの“とてつもない”宗教行事です。この行事は1972年の国の独立の少し前から始まったとのことです。こちらの人の話では、この行事はイスラムの穏健派が行なうもので、他国にはないものだそうです。そしてお断り(?)しますが参加者は基本的に全て男性です。ただ、会場近くでは女性もいます。例のメッカで行なわれる「ハッジ」には女性も参加します。

 “とてつもない”とは、その会場に、数百万のムスリムが大集合することです。外国からも5万人くらいが参加します。日本で百万を超す人間が1箇所に来ると言うのは、例えばお正月の時の神社などに来る数があります。しかし、このビッショ・エステマは、今年で言えば2月4日が最終日なのですが、そのお昼の礼拝がハイライトで、これを目指して人口1千万とも言われるダッカ市のあちこちから、まさに続々と、しかも歩いて、数百万の人々がやって来ます。まさに一時に、一箇所(周辺を含めて)に集合すると言うところが、日本の場合との大きな違いでしょう。

 さて、会場はダッカ市の北、トンギと言う町の、手前を流れるチュラグ川の、河川敷のようなところに作られます。見た感じでしかお話できませんが、最低でも1km×2km(1人当り1m×2m程度なので、単純計算で1000×1000の百万人用)のテントが張られ、しかもそのテントは繋ぎ合わされて1枚になります。布はジュートのようです。この国で、一般によく使われる太い竹が柱になります。高さは3m以上もあるでしょうか。参加者は全国から来ますので、この会場はまずダッカ市外の人を収容します。何千台ものバスを連ねてやってきて、会場は最低2泊3日の宿泊施設にもなるのです。しかも参加者は殆どが、ここで自炊しますので、会場には何千ものトイレと、炊事場が用意されます。参加者は地方の地域単位の団体でやって来ます。ですから仲間同士で、大きなお釜や炊事道具を持参しています。

 ここで1日5回の礼拝をするのが主たることのようですが、会場のあちこちで講義のような集会が催されます。礼拝は宿泊しているところで行なわれます。礼拝は正確に横一列になります。そのため、持ち物も綺麗に横一列に置かれています。その列の長さは、1kmもあるテントの端から端まで続くのです。そして一人分でも空きがあると、その後の人が前に出て、その空きを埋めます。そして各人が礼拝用の布を敷き、その上で立ったり座ったりの礼拝の仕草をするのです。“整然”とはこのようなことを言うのでしょうか。

 ところで、特に最終日の最終の礼拝のときは、当然(?)用意された会場には全部は入れません。多分、百万を超す人々が会場周辺の、正確には分りませんが、5km四方くらいの中の、空き地や、道路の端や、建設中の建物の中などいたるところで、礼拝をします。会場の様子や礼拝の祈祷の声が、その周囲に仮設されたスピーカから放送されます。

 最終日の12時30分になると、ぞろぞろと歩いていた人々も含めて、全ての人が礼拝を始めます。歩いている人も含めて、皆が両手を合わせて手の平を、顔を洗う時のような格好にします。それが佳境に入ると、ピタリと動きが止まり、静寂が拡がるとともに、スピーカから流れる祈祷の声に呼応して、皆がそれに答える声が、腹の底から響くような轟々と聞こえます。そして今回は12時58分に礼拝が終わりました。そして、まさにその瞬間と言えるほどに、何百万人が一斉に立ち上がって、今来た道を帰る方向に歩き始めるのです。何か呆気に取られる感じです。

 街の道路は、片道4車線(中央分離帯はありますが、車線表示はありません)くらいの全てが、まさに歩行者天国になり、要人が通る時だけその部分が区分されるような状態で、歩行者で埋まります。リキシャですら通れません。歩行者用の横断橋の上から見ると、視界の届く限りの範囲が歩行者でいっぱいです。時間が経つとバスなどが走り始めますが、そのバスには屋根にも人が乗り、トラックも人で鈴なりです。人々は会場で使った道具も含めて大きな持ち物を、頭に載せたりしています。

 会場周辺では、臨時の屋台や仮設のホテル、レストラン、土産物屋、その他の雑貨などのあらゆる店が出ます。それに給水サービスをするところもあります。 また、ダッカ市内の人も、特に役の高い人達も泊りがけで参加します。私の勤める病院の院長モアゼムホセインさんも、2晩は家に帰ってきませんでした。いすれにしても会場から4〜5kmも離れた私の勤める病院の近くも、3日間は凄い車の渋滞でした。最終日の道路は、会場に入ることを断念した人達が、集団で道路上に座り込み、歩行者も東京の朝の、満員電車の中のような状態で、私は会場近くになんとか行こうとして、人いきれの中を小突き回されながら歩きました。

 以上がビッショ・エステマの様子です。実は私は今回が初めてではありません。7〜8年前にも経験があるのですが、今回はもう少しよく見てやろうと、少し動いて見ました。前回も凄いものだと言う印象はあったのですが、今回つくづくその感を強くしました。日本では多分、このバングラデシュのビッショ・エステマについて紹介されたことは無いだろうと思い、この紹介文を書きました。世界遺産じゃないですが、世界のビッグイベントの1つに数えられるのじゃないでしょうか。

 ※その他の写真はこちら(“よりすぐり!!”のものです。データ容量が大きいですが是非ご覧ください)








− 第1回 −

 こちらへ来て、今日で18日が過ぎましたが、皆様はお元気ですか。私は全く元気そのものですので、ご安心ください。私はこちらで、アンケル(あのアンクル・トムのアンクル)と呼ばれています。それで、これからレポートの題名に使うことにします。


※バイジュリー小学校でのボランティアクリニックのメンバー。
左端が最初からやっている(電気技師)、女性二人は看護婦さん、薬を持っている人と
、その左後に見えるのが若い医師、女性の間にいる人と、右端は製薬会社のボランティアの
人、一番前は病院のスタッフ。普通、これくらいでやります。

 先ずは、こちらの様子ですが、何と言っても、2大政党の政争のことがあります。私がこちらに来た日に、そちらでもニュースに出たようですが、シェイク・ハシナが率いるアワミ連盟と、カレダ・ジアが率いるBNP党(Bangladesh Nationalist Party) との政争で、社会機能がマヒした状態です。(シェイク・ハシナ、カレダ・ジアのいずれも有名な政治家の関係の女性、細矢さんがよく知っているでしょう)それで、交通機関が止まり、行政関係が閉鎖されているので、大事な手続きはもとより、一般人の仕事にも大きく影響しています。病院も患者が来れないので、ベッドも2〜3割は空いた状態です。毎日2〜3人の手術をしているホセインも今日はゼロです。大学も休校です。建築工事は続けていますが、これも交通マヒの影響で、資材が入らず仕事は縮小しています。

と、言うことでまともな日が無かったことと、私が落ち着いた状態に無かったこともあって、アイチホスピタルやメディカルカレッジのことを、ちゃんと報告できません。それに、例のラマダンが有った所為で10月は殆どボランティアクリニックも出来ていなかったようですが、11月3日から再開しました。

 11月3日と10日は、バイジュリー小学校でしました。ここはアイチホスピタルのボランティアクリニックの発祥の地です。私にとっては久しぶりのことで、懐かしく感じました。しかし、ウットラ全体がそうですが、一大市街地になってしまって、まさに面影がない感じです。私が居たころは土地造成されたばかりで、何も無く、スラムがそこここにあったのですが、いまはビルだらけ(殆どが日本で言うマンション)で、スラムは何処に行ったのでしょう。(実は有りました。ずっと向こうに追いやられていました)患者数は2回合わせて274人でした。過去2年も居たのに何だと皆さんに笑われますが、実際は私のバングラ語は、カタコトに近い状態ですので、非常に難儀ですが、患者への質問は、2,3してみました。家族6人で月に2〜3千円程度の収入であるとか、このクリニックは口コミで知ったとか、昔から来ているとかが分った程度です。言い訳ですがクリニックのやり方などを確認することなどで、いっぱいで殆ど出来ていません。これから頑張ります。病気の中味ですが、実際は熱とか痛みとかの症状をつかんでいるだけで、検査をしないと、よく分らないので、一応対症療法的に薬を渡しています。明らかに危ないと言う場合には、アイチホスピタルに来るよう、言うことにしています。大学病院でのボランティアクリニックも始めましたが、私はまだ行けていないので、報告できません。詳細は別途送った表を見てください。


※前のイギリス製125KW.とにかく良く働く発電機です。非常に助かってます。
毎日2~3時間は動いています。

 ところで、Dr.ホセインの様子ですが、これも政争の影響で正常・通常の形がまだよく見えませんが、とにかく忙しいことは間違いありません。彼の一日はアイチ病院での午前の回診と外来診察、夕方の外来診察、午後あるいは夕方の診察以降での手術は昔の通りです。手術が増えている筈ですが、例の政争の関係で、今はそんなでもないです。昔と違うのは午前の診察の後、大学へ行くことです。現在の大学の運営のことは勿論ですが、建設についてかなり頭と時間を使っています。私にとってはまさに驚きですが、例えば、建設に使うセメントの手配、買い付けまで自分でやっています。日本では、(多分こちらでも)自分の自宅でも全て業者に任せて、偶に来て注文を付ける程度が普通でしょう。増してや、これだけの大学であり、病院です。日本の病院から見ても、少なくとも大きさは相当なものです。Dr.ホセインの弟さんが、大学と病院のことは手伝っていますが、かなりの部分はDr.ホセインが決断しています。これには頭が下がる思いです。参りました。

 以上がアイチホスピタル関連のレポートです。前半は固い話しでしたが、ここからはごく普通の話にします。

 こちらに来て、やはり以前居た時との違いが、気になりました。

 その1つは、ベビータクシーと言う三輪の乗り物(日本でも昔有った「ミゼット」とか言ったオート三輪のタクシーで100cc程度の小さな物)です。これは勿論、前からあるのですが、2気筒エンジンなので、以前は潤滑油をガソリンに混ぜた混合油を使っていたので、この排気ガスが街の空気を青白い色にしていて匂いも凄く、暑いときにはたまらないものでした。それが全て「CNG」と言う天然ガスを使うようになり、車の全体の地の色も統一され、街の空気はかなり改善しました。流石に国を代表する首都ですので、気を使っているのでしょうか。

 次に、以前には全く無かった「スーパーストア」です。まだ、中心街には行っていないので分りませんが、新興住宅街のウットラにも、日本に比べれば小さなものですが、入り口にはガードマンがいて、例えば私が間違えて入り口から出ようとしたら、注意されました。それに、入り口で、持ち物を預けるようになっています。下足札のような預り証が渡されます。レジは一応バーコードが読み取れるようにはなっています。レジ袋は二本の物より色々あり、編み袋のような物とかがあります。並べられているものは、生活一般に必要なものが一通りあるようです。それから、テナント店と言うのでしょうか、7〜8階まで吹き抜けのあるような店もあります。とにかく、以前には全く無かったような10階建て以上の商業ビルが、このウットラに3棟もあり、本当にびっくりしました。私がバングラを離れて7年ですが、バングラもまさに発展?しました。


※スラムの夕飯時。テント型竹の皮の物が見えます。4~50戸でしょうか。

 次はスラムのことですが、ウットラの中のことしか分りませんが、以上のように、街に空いたスペースが無くなったのですから、当然ながら追いやられたのでしょう。やはり、街の端にありました。リキシャが沢山あったりしています。竹の皮で出来た小屋は、以前の様と同じです。ただ、これも3種類くらいは有りそうです。竹の皮だけの場合とか、テントのようなもの、そして天井はトタンを使ったものがあります。はっきりとした記憶はありませんが、以前はこんな種類は無かったと思います。とにかく驚いたことに、天井がトタンのスラムにいっぱいクルクル巻いた形のアンテナが立っていたのです。中に入れてもらって見たら小さなテレビ(10インチくらいか)があるのです。電線が来ている様子もないので一緒に行ったショブジュ君に聞いたら、電池か或は、こっそり盗電している筈だと言います。そして昔は8000タカ位だったものが、今は3000タカ程度で買えるようになったそうです。

 さて、バングラの気候は今、雨季が終わり、気温も昼は30℃前後です。朝は22〜23℃でしょうか。しかし、まだ湿度が高いせいか、蒸し暑いです。夜寝るときも未だ天井のファンを回しています。流石に夜中には止めます。川は水が引いて本来の川筋の外に田圃が現われて来ています。これから来年3月まで続く乾季の間に、ここで栽培が出来るようです。

 ところで、日本人関係の話を紹介します。私が来てから日本人とは、大使館で大使と二人の館員、バングラ人と結婚した女性とそのお連れの女性、エクマットラの渡辺さんと援助しているやはりバングラ人と結婚されて30年以上こちらにいる神部営子さん(松井さんのお友達?)、それにAHIの宮崎医師夫婦と友人の医師夫婦とそのお母さん、以上の方に会いました。が、これについては次の機会に紹介します。


 2006年11月15日 アイチホスピタルにて


私達はこんなデータを持っています

小児のスラムと富有層との比較した身体系統別裡患疾病の表とグラフ等でデータは上記Tel・Faxへどうぞご連絡下さい。

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